がんばらにゃあのう

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● 1912年(明治45年)5月16日、新橋発の敦賀行き列車に、まなじりを決した青年2人が乗り込んだ。陸上短距離の三島弥彦(東京帝大)と、マラソンの金栗四三(かなぐりしそう)(東京高師)。目指すは日本が初参加する第5回オリンピックが開かれるストックホルム。日本五輪史の第一歩を刻む記念すべき旅立ちだった。

● このとき金栗20歳。敦賀から船でウラジオストク、さらにシベリア鉄道でサンクトペテルブルク、そして再び船。ストックホルムに着く6月2日までの18日間、金栗はめまぐるしかったこの半年間に思いをめぐらせていた。

● 「第5回オリンピック大会の予選会を行う。種目は百、二百、マラソン(25マイル=40.225キロ)。希望者は申し出るよう」。前年11月、大日本体育協会が新聞に出した募集記事を目にした金栗は「自分の脚力を試すチャンス」と、軽い気持ちで参加を決めた。

● 熊本県玉名郡三加和村(現玉名市)に生まれ、玉名中から東京高師地理科に進んだ金栗は、1年前の全校長距離競走(24キロ)で1年生ながら3位に入ったのをきっかけに徒歩部(陸上部)に籍を置いた。「オリンピック」「マラソン」という言葉に接したのは、このときが初めてだった。

● 予選会は11月19日、新装の東京・羽田競技場で行われた。競技場−東海道線東神奈川駅往復のコースに、健脚自慢19人が参加。ここで金栗は2°32′45″で見事に優勝する。しかも、当時の25マイルの世界最高(2°59′45″)を一挙に27分も縮める大記録。短距離を制した三島とともに文句なく第1号の五輪代表に選ばれた。

● 「でも、それからが大変だったと聞いています。ウチは裕福ではなかったですけん、旅費をつくれんかったとですよ」。玉名市に住む長女、池辺政子(73)は、述懐する。ちなみに金栗は後に池辺家に婿入りしたが、義母の「マラソンの金栗じゃけん、戸籍上は池辺でも、金栗を名乗ればよか」の配慮で、生涯「金栗四三」で通した。

● さて、旅費はどうしたか。五輪代表とはいっても、至れり尽くせりの現在とは違い、当時は全額自己負担。元警視総監、三島通庸の三男で、金銭的にも恵まれていた三島に対し、金栗は途方に暮れた。だが、実兄らの援助や、東京高師の級友たち、さらに出身地・三加和の人々のカンパも加わり、現在でいえばゆうに百万円を超す大金が届けられたのである。

● マラソン当日の7月14日は、北欧には珍しく灼熱の太陽が照りつける悪条件下にあった。出場者68人。予選会での驚異的なタイムから「あわよくば優勝も」と期待された金栗だったが、先頭集団に合わせてピッチを上げすぎたのがたたり、猛暑による日射病も加わって、32キロ地点で意識不明に陥った。無念の途中棄権。我に返ったのは沿道の農家のベッドの上だった。

● 嘉納治五郎団長から「日本スポーツ界の黎明の鐘となれ」の檄(げき)を受けながらの挫折。捲土従来を期しつつも、金栗は傷心のまま帰国についた。

「がんばらにゃあのう」。これがマラソンの父・金栗四三の口ぐせだった。

● 日本の五輪代表第1号となった第5回ストックホルム大会(1912年)にとどまらず、20年の第7回アントワープ大会(16年の第6回ベルリン大会は第1次世界大戦のため中止)、24年の第8回パリ大会の計3大会にマラソン代表として出場。2°48′45″4で16位に入ったアントワープ大会を除いては途中棄権に終わったが、この不本意な成績が、以降の金栗の人生を決めることになった。

● 「3回も出ながら1回も勝てん。くやしゅうて、くやしゅうて」「オリンピック会場のメーンポールに日の丸があがるまでは死に切れん」。長女の池辺政子の耳には、父のこの言葉が今もこびりついている。

● 五輪での”屈辱”をバネに、行くの金栗は東京女子師範などでの教員生活のかたわら、マラソンの普及に全勢力を傾け、貴重な経験を後進に伝えた。山田敬歳、君原健二、円谷幸吉・・・金栗を師と仰ぐ名ランナーは数え切れない。この間に関東学生箱根駅伝を企画、戦後すぐには熊本県教育委員長にも就任している。

● ストックホルム大会から55年が過ぎた67年、スウェーデン五輪委員会の招待で懐かしの地を訪ねた75歳の金栗は、途中棄権で走りそこねたコースをジョギングして”完走”。念願のゴールテープを切った瞬間、スタジアムにはいきなりアナウンスが流れた。

「日本の金栗、ゴールイン。タイムは55年。・・・これでストックホルム大会の全日程が終わりました」

● 83年11月13日(←なんと、僕の誕生日!)、金栗は肺炎のため、メーンポールにあがる日の丸を見ぬまま、熊本市内の病院で静かに人生のゴールを迎えた。92歳だった。

● その死をみとった政子は「父は自殺された円谷さんのことを最後まで残念がっとりました。”悩みがあるんなら、なんでワシに相談せんかったか”と言うとりました。自分の息子のように思うとったんですね」と振り返る。

● 13回忌を迎えた去年秋、6人の子供たちが自宅近くの山の中腹にある墓に、父親の記念碑を建てた。案内する政子は、70歳を超えているというのに、息ひとつ乱さず、こともなげにヒョイヒョイと急な山道を駆け上がる。さすがは金栗の娘・・・。

● 「私たちが建てんと、その昔、ようマラソンを走りよった人がこんな田舎にいたゆうことを、みんな忘れてしまいますけん」

● その記念碑には、金栗の筆になる「体力、気力、努力」の文字が刻まれ、あわせて晩年の心境がこう詠まれていた。

若人の 走り競うを 見つつゆけば
ストックホルムの マラソン偲ゆ

=敬称略

朝日新聞(?)平成8年(1996年)3月14,15日の記事より

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